辻 |
阿波道(マンダ道)と伊予道(金比羅道)の交差点で街道相交わって十字をしている為。 |
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辻(東、中、北、西)は集落発展の結果で細分の必要性から方角で分けたと思われる。 |
宮の下 |
八幡神社の西北にある集落で、単に八幡宮の下の屋敷と言う意味から |
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起こったものであろう。 |
大鞘 |
平田開地前、己に此処に居住する者あり、野田家の祖先は土佐武士なり。 |
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開地時に至っても権力甚だ強く、「我祖は長鞘のさし入みにて宿毛の城主たり」と自尊し |
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子孫も長くこれを唱え続けた、 以ってその地を大鞘と読んだそうだ。 |
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大野原名物の一つであった野田松は大風で倒れたが野田の先祖が |
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植えたものと伝えられていた。 |
三軒屋 |
「平田開地当時、ここに藤田・合田・大西の三家が移住したので |
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三軒屋と呼んだそうである。 |
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僕らは「さんぎゃ」と呼んでいる。 |
伐留 |
開地に当たり、森林の伐採が下から上へと進んだが |
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平田氏が来住者用にあてるため、花稲のお添林と共に伐採を禁止した地点に |
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当たるので、伐採を留めたと云うことから「伐留」となったそうだ。 |
杉林 |
承応の頃まで、杉の林であったことかららしい。 |
下林 |
ここは松の林であったらしいが、村の下(しも)にある林と云うところから |
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「しもばやし」と呼んだらしい。 |
残水 |
この地の南一体は三家共有地が有り、水利その他権力者がいた。 |
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残水組の開墾者はその地の残り水を貰い受けて耕作していたことから |
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「のこず」と言うようになったとか。 |
甚右衛門屋敷 |
甚右衛門は中村姓で祖は組頭を勤めていた。 |
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そこで仲間はその地を「甚右衛門屋敷」と呼んでいたのが今に残ったものとか。 |
十三塚 |
昔は大将塚と言っていたらしいが、古墳が十三あったところから |
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「十三塚」と言うようになったそうだ。 |
林(はい)屋敷 |
林(はい)は松林で上林(高松)、下林に対して位置が中間にあり、 |
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林の中に屋敷があったことから、なずけられたそうだ。 |
屋敷 |
開家の一、備中屋藤左衛門の邸宅を構えた所で「屋敷」と呼んだそうである。 |
五右衛門屋敷 |
備中屋藤左衛門の近隣で、藤左衛門の邸宅を建てる時、 |
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世話をした者に五衛右門と言うものがいた。 |
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その五右衛門の屋敷があったところから五右衛門屋敷と言ってたらしいが |
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今は一般に権屋敷「ごんやしき」と云っているらしい。 |
安井 |
菅原道真が当地に来た時、 |
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「吾当地に来たりて政務を果し心安易なり重ねて来りて汝等に遭わん」と |
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言ったところから安易(安井)となったらしい。 |
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又、安井大寺にある井戸は清泉でよく湧くことから「安井」となったと言う説もある。 |
東村 |
中姫の一部で、中心部(中央)から見て、東方向にある部落なので |
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「東村」と命名されたらしい。 |
赤岡 |
この地は、小高い丘で古墳があり岡と称し、その丘地は赤色を帯びていたとかで |
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「赤岡」と証したらしい。 |
札場 |
藩政時代、小やの近く、或は街道の近くなど人の集まりに便利な所に石垣を築き、 |
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その上に高札を立てていた。 |
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その遺跡を札場といっている。 |
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又、古老の言によると村内に出来た米穀や藩主に平田氏が貸与した銀子の |
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伝票などを、ここで切って渡した場所だとも言い伝えられている。 |
石砂(いっさこ) |
さこ(砂畑)で水持ちの悪い場所で特別の地として珍しい地質である所から。 |
白坂(しらさか) |
西の方から大野原への入口に当たり、なだらかな小さい坂になっているところから。 |
雉子畠 |
雉(雉子・きじ)がよく出ていた処で、土質の悪い処の両面から。 |
扇沢 |
野原の形が扇を広げた形になっている地形かららしい。 |
平池 |
平池がある地と言う意味から。 |
三反田 |
平田氏が開墾を始める前に耕地が三反程あった処から。 |
六反地 |
三反田と同様、耕地が六反程あったところかららしい。 |
耕堂 |
講堂のの変化か?? |
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平田家関係の学校か塾があった処か??詳細不明 |
吉の内 |
葦(よし)の内のなまりか? |
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よし竹がよく繁り、囲まれている景観から起こったものらしい。 |
桐の木 |
桐(きり)の木が生い茂っていたところから。 |
彦右砂 |
大西彦右衛が開墾したところで、さこ(砂畑)であったところかららしい。 |
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豆塚に「大西」姓が多いのは、その子孫ではないかと言われている。 |
木戸 |
鹿が出て作物に被害を与えるため、木の柵を作り、その入口が木戸であった。 |
又平 |
「又平」と言う人が開地した場所らしい。 |
白井 |
「花稲北」 詳細不明 |
銭々窪 |
「銭々窪寺」があった処から。 |
段の畠 |
畑が段々になっていて、下から見ると「段の畠」であった処から。 |
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「段の池」も同様な景観かららしい。 |
柏屋 |
「柏屋」と言う名家があった処から。 |
野田 |
「本村東」、起源詳細不明。 |
昇畑 |
上手に当たる畑で大谷道が通じ、大谷池から溝に水をひき灌水していた。 |
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「大谷いで」と伝えられている。 |
流畑 |
悪水が沢山流れ出る地名かららしい。 |
子の田 |
「裸池」の付近、詳細不明。 |
松の池 |
「松の池」の池がそのまま、地名となった。 |
大末 |
平田開墾当時、ここは森で木材が得られる土地への添加物として |
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藩から貰った供(添)え部からと言うところからと、 |
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一説に、花稲の西端(末)に当たると言う説もある。 |
道下 |
「道の下」と言うところから。 |
新海砂 |
後から開かれた新開地と言うところから。 |
監物 |
「東村」にあるらしい。 |
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将監の持ち物(持地)という意味か? |
切戸 |
(きれと)。 上から水の流れ落ちる所から。 |
原田 |
不明?? |
桑の木 |
桑の木が生息していた所からか。 |
大坪 |
条理制からきたものだろうか?詳細不明。 |
正白 |
{しょうはく」。 正白寺があった処から。 |
籠池 |
底なしで水が溜まらない所から。(笊の様) |
植松 |
松の大木が並んで生えていた所から。 |
帳口 |
中姫(中央)にあり、土地台帳の始まりか?? 詳細不明 |
森下 |
中姫(中央)にあり、 詳細不明 |
蝋杣 |
(ローギヤマ)。 ローギが沢山生えていたらしい。 |
さぎの首 |
(豆塚)。 |
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さぎの首の形の田がある所から起こったらしい。 |
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三豊郡 |
明治32年に三野郡と豊田郡が合併した時、三豊をあわせて、三豊郡となった。 |
讃岐 |
「さ」は狭いことで南北を示し |
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「ぬき」は横糸のことで、東西を示す。 |
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地形東西に広く、南北に狭い処から起こったものらしい。 |