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大野原の遍歴
(大野原町誌等々より抜粋)

大野原の沿革

古い昔に人が住んだこともあるが、何時とはなしに無住の原野として放置されていた大野原村が
数百年前に開拓され、池の築造により水利の便を得て農業が開け、住民が定住することゝなった
「我が故郷」大野原であるが。

前身・大野原村には日本民族の形成すに併行する新石器時代の遺跡が処々にある。
即ちここの歴史は弥生式文化にはじまり、大和地方や北九州の文化を取り入れ、
或は曼陀峠(まんだとうげ)を越えて吉野川文化(阿波・徳島)との交流を図り、
古墳時代を迎えては全域に一大古墳群地帯を形成していた。

村の北東方面の低地帯に水稲文化による大集落が構成され、
財田川以西における仏教文化の一中核として進行や思想の中心地であった様子である。

室町時代には伊予・讃岐両勢力の衝突する巷(ちまた)となって荒廃するまゝに捨ておかれたが
1643年讃岐にかつてない大開墾事業が企画され、広漠たる荒野は稔(みのり)の大野原と化し
讃岐のこめ穀倉地帯を現出した。

1955年(昭和30年)の初頭の全国的な町村合併によって地理的に相隣接し共に雲辺寺山の流れをくみ、
人情風俗習慣を共にする五郷村・萩原村・紀伊村の近隣四ヶ村と合併し、大野原町となった。

そして2005年10月11日に平成の大市町村合併により、観音寺市・豊浜町と合併し観音寺市となった。 


古墳時代の大野原

寛延年間には大野原村内には約170基の古墳があったことが記録されているらしい。
大字中姫・赤岡山をはじめ東村や安井にも約40基・花稲にも数基あったと記されている。
現在でも約40基は残存しているらしいが、中学生の頃、牛乳配達で安井地区に入ってたが微かに思い出す。


大野原は地形的に扇状地である。
五郷の谷あいから流れ燧灘にそそぐ柞田川・唐井出川や村内にわく泉(出水)のほとりに住居が群がって
集落を作り、村の中央、五郷、萩原の丘陵地形に続いて海に及び、東北地帯と南西地帯が次第に低くなって
隣村と接続している。
こういう地形は古墳地帯に共通した地形である。

赤岡古墳群


大字中姫赤岡部落の古墳が赤岡山と云われている小丘陵の平らな頂上部一体や
この側面、麓を中心に群集していた古墳を赤岡古墳と云うらしい。

この古墳は円墳で底面の直径が24m位、底面から墳上までの高さが3m位であるが築造当時は3.5m位であったと
推測されるらしい。

墳の頂上部は大体平らであり四重に茸石を使っている。
盛り土の流失を防ぐ為に柞田川の川原石を底面に一列に並べて土留めとし、斜面には1mおき位に円形に
三段ならべ、四段(四重)に川原石を葺(ふ)いて封土の流出を防いでいるとの事である。

周辺には20余基の古墳群があったらしいが、開墾され畑となったり果樹園になったり、10基くらいは
封土が低くなったり、封土が地ならしされたりしている。

たくさんの出土品は大野原小学校に保管してあったが、昭和8年の大火にて大半は消失し、
一部は坂出鎌田郷土館や三豊第一中学校等々に所蔵されているらしい。
東村〜安井古墳

東村から安井地区にかけて散在していた古墳は現在では殆ど開墾・破壊され、其の影を留めていないが、
地下にはまだ相当数の石室が残されている可能性がある。
立石古墳、神田古墳は今にも名を残している。
宮ノ下から平塚にかけての古墳群  

八幡神社の社殿の傍に椀貸塚があり有名である。
この椀貸塚は八幡神社の社殿とか応神社を建てるときに一部削られた様子がある。

墳丘は半球形の円墳で直径35m位、高さ7.5m位で墳上には老松を中心に種々の雑木が繁茂っている。
小学生の頃には神社の土壁を越え、「どんぐり」とかを取ったりした記憶がある。

羨門(ぜんもん)は縦横1m弱で体をくねらせないと石室に入れなかった記憶がある。
暗くて奥深く、足元がわからない。  たしか、「こうもり」が沢山ねぐらにしていた。

母からは言い伝えでは「何時・何個のお椀を貸してください」と言って当日来るとお椀が揃えてくれてるんだとか。
で「何時お返しにきます」と言って借りて帰るんだとか。・・そのうちにそのお椀を借りた人が返さなかったそうな・・・
それ以降 お椀は貸して頂けなくなったとか・・・・!!


椀貸し塚の北隣に岩倉塚がある。
この古墳も小学校の拡張で間に道路がつけられ分丘が削りとられている。
封土上には観音堂が建っている。  現在は慈雲寺の一隅を占めていて道路面から見える石室の
入口らしき個所は羨門(ぜんもん)ではなく羨道と玄室の界らしい。

丁度、羨門(ぜんもん)らしい個所は花崗岩で密閉されている。
これは乞食連中が石室を住家として迷惑することが多かった為らしい。


椀貸塚から南約300mの位置に五社明神を祀った境内がある。
ここは昔古墳であったらしく、四角塚と記録されている。
名称通り四角い方墳であったのだろうか?     開墾されて社地となってる今では確認のしようがない!!>


四角塚から更に南に500m〜60m位のところに角塚と呼ばれる古墳がある。
現在は封土が削り取られて弦室の岩がチラチラ見える程度で悲惨な姿となっている。
西から北にかけてはならされて果樹園となっている。


角塚から更に200m位南下すると直径50m,高さ10m位の平塚がある。
この平塚は八幡神社の秋の大祭には神社のお旅所となっていて、古式ゆかしい神事の行われる場所ともなり
「壇尻」「ちょうさ(太鼓台)」でにぎわう場所ともなっている。

墳上が平らなので平塚と呼ばれているのであろうか。
上記の椀貸塚・角塚等の中で最も大きい塚である。

墳上には数百年をも迎えた老松と隆王宮がある。
三大古墳の中で地域の人々に一番親しまれている場所ではなかろうか!!

近くには中央公園なる施設も出来ていて、憩いの場所にもなっているし、歴史研究の貴重な考古資料でもあり
昭和28年9月15日に香川県の文化財として指定されているとの事である。

現在は破壊され地上から姿が消えた豆塚の豆塚古墳がある。
私の実家の隣部落であるが、いい伝えではこれも壮大なものだったそうだ。
尚、石室に使用されていた巨石は八幡神社にて所々に使用されているらしい。


私の実家の石砂(いしさこ)には若宮さんと呼ばれていた若宮古墳(石砂古墳)があった。
小さい頃、その古墳には足を踏み入れてはいけないとよく親に言われたものであるが、
現在では開墾されててしまっていた。
官地の払い下げの土地だったらしい。
花稲地区にも数基の古墳があったらしい。植穴塚とか
でも現在は姿も無い。

その他では
残水地区に猫塚とか、杉林のよし塚とか 観音堂屋敷の観音堂古墳とか 安井の立石古墳とか、
神田古墳
とか・・・・!!
                                                                                                                                                                                                     
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大野原の開墾

奈良時代以前


香川県内の古墳分布状態を見ると、大野原は粟井村。紀伊村、母神村、赤岡山と共にその数が最も多く
椀貸塚の如く香川県下第一と思われる大規模な円墳を初めとし、平塚、角塚などの大円塚が残っている。

まだこの他に豆塚、猫塚、四角塚、植穴塚、などの名も残っているが西讃府志によると
「塚十一・この地開きしとき百七十ありしといえり」とある所からも奈良朝以前においても早くから有力な氏族がいて、
香川県内の一中心地をなしていたものと思われる。

そしてこの地は「和名類聚抄」国郡部の郷名の条項に「姫江」とあって「比女乃江」(ひめのえ)と読み、
現在の和田・豊浜・五郷・萩原・紀伊・大野原の地を総称して呼んでいたものと考えられる。



平安時代以降


平安時代後期には、「姫江庄」(ひめのえしょう)が、人皇第74代・鳥羽天皇の第二皇女・八条院障子内親王
領地となったそうである。

その後鳥羽上皇の官領地となったと記されている。

1221年の承久乱の結果、この管領地は没収されたが、三年後、高倉院貞親王・御子四条天皇・後嵯峨天皇・
亀山上皇(1305年)の管領地となり後宇多天皇(1308年)・尊冶親王・の後、徒らに逆徒の横暴のままに、
まかせられるの状態となり皇室の管領地を離れ、武家の領地となったようである。

その後
室町時代は水利の便・肥沃な土地は開墾が進められ、耕地となっていったが
大野原の様に土地が高燥で、水利に恵まれない不便な地は、耕作もされないままで
原野のまま捨てられた様である。

ただ、水利に恵まれた周辺の耕地に和田郷が建てられた。
1641年、生駒家から琴平宮に献納した讃岐国の古い地図には、
和田・箕浦・田野・井関・萩原・和田浜分・蝦済(えびす)を和田郷として記し
姫浜分・花稲・在木(ありき)内野々・丸井・粟井・木乃郷を姫郷として記されている。

大野原はその姫郷中の中姫の一部であったようである。

また、1640年の「生駒高俊公御領讃州郡村々総高帳」によると、大野原四囲の村々 中姫村・花稲村・萩原村・
柞田村 は開墾が進み朝夕、煙が立ちなびいていたそうであるが、我が故郷大野原は全く地名が見あたらない。

南は雲辺寺山を背にして、燧灘の波寄せる花稲の海岸の近くまでの一里四方の大野原は見渡す限り雑木林に
覆われ、その中に緑濃い松原が繁茂した荒野で見捨てられていた地域で僅かに、観音寺から五郷を経て
阿波の山奥へ通じる阿波街道と柞田から姫浜へ抜ける伊予街道の道が開けていたに過ぎない。

こうした荒涼とした大野原、これが江戸時代開拓前の我が故郷の姿であったようである。


生駒家(西鴨八兵衛)による大野原開墾


こうした大野原に着目したのが1638年頃・当時讃岐一国の藩主だった生駒壱岐守高俊の家臣で、
豊田郡郡奉行の西鴨八兵衛であった。

西鴨八兵衛は自ら陣頭に立ち采配をふるって井関池の築造に着手したのであるが堤の原型も大略出来上がった頃、
生駒家のお家騒動で1640年井関池は工事半ばにて中止となった様子である。

樋には小豆郡の豊嶋から巨岩を運搬しあてがったとの事である。



平田家の大野原開墾


江戸時代初期に生駒家の西鴨八兵衛の中途挫折の後を承けて井関池を完成し、大野原新田の育ての親と
なったのが平田氏を中心とする仲間である。

平田家は伊賀国(三重県)山田郡平田城に住んでいた為、平田氏と名乗っていた。
大野原開墾の祖・平田与一左衛門政重の家は曽祖父・正郷の時、父・信近が大阪夏の陣(1615年)で
豊臣方に味方し討死したため、一家は近江国(滋賀県)の大津に移住し町人として暮らしていたらしい。

近江は「近江承認」の出た豪商の多い国であるが、平田家もその巨財を以って財政に苦しむ諸国大名に
お金を貸していた、所謂「大名貸し」を行っていた。

当時讃岐高松の藩主・生駒高俊も平田与一左衛門から銀子を借りていたし、丸亀藩主・山崎家冶も
銀子を借りていた。
こんな訳で「大名貸し」とともに、土地開墾にも投資をするという資本家であったらしい。

1640年生駒家のお家騒動の結果、讃岐の国は二分され、東讃は松平頼重・西讃は山崎甲斐守家冶が統治し
肥前天草から西讃に封じられた山崎家冶は居城の構築が先ず必要であった。

最初は観音寺の殿町に屋敷を構えていたが、丸亀に移り丸亀の亀山城を改築する事となり、
修築のため諸国から請負業者を募った。

平田与一左衛門はこれを聞き入札をしてみようと思い、手代の木屋庄三郎、備中屋藤左衛門、
三鴨屋又衛門らと共に丸亀へ下ったが既に入札は済んでいた。

彼らはひどく失望したものの、直ぐに帰路につくこともできず、これに代わる仕事はないものかと思案をしていた際、
丸亀から西の所に一帯の原野がある拓せば相当の新田になりそうだということと、生駒の時、西鴨八兵衛が
新田にしようと池を築きかけていたが、生駒家のお国替えで中止になっている処があると云う事も聞き、
この大野原を尋ねてきた。

中姫の大庄屋・坂本四郎右衛門方に泊まり、翌日から大野原をくまなく調査した。

遥か南を仰ぐと、東から財田山、神田山、河内山等々が肩を並べ、雲辺寺山はその中央にどっかと居座り、
西へは、有木山、田野々山、高尾山等々が連なり、果ては鳥越で海に臨み、遥か向こうには予州の山々が雲間に浮かぶ


丸亀・金比羅は東五里、象頭山の肩越しに左右に指すことができる。
北西眼下には燧灘は傾いた陽を受けて、寄せては返す小波が金色に眩いばかりの美しさである。

芝原を縫って延々と続く二本の街道が北から南へ・東から西へ延びている。
足元の芝草を抜き取ると、肥えた土。用水があれば・・・・・・・・・!!


かくして隣村との境界を決める為、各村々の庄屋(中姫・萩原・井関・和田・花稲・柞田・山田尻・大畠・北岡)と協議を行い
東及び北の方は萩原から柞田村(くにた)の界までに井手を掘ることにし、南は山麓の根とし
、西は姫浜村と花稲村との間にある林までの範囲に決定した。
この時、書き記した地図が役場に残っている。  これが前身の大野原村である。

1643年5月22日を正式に藩主・山崎甲斐守家冶の開墾許可がおりた日を大野原村記念日として、
年中行事の一つにしていたが今では忘れ去られている。

 開墾Mapは こちら 参照(「芝」と記されている所は、未開墾の場所みたいである。)


開墾MAP

井関池の築造と灌漑用水路の設置



大野原新田の成否の鍵は、揚水を得る「ため池」の築造にかかっていた。
藩主の許可を待って、最初に着手したのが井関池の築造とその用水路の新設とであったが、
莫大な経費と心血を注いでいる。

日夜を分たない突貫工事で1643年〜1644,年の僅か7ヶ月の短期間で完成をさせたようである。
しかし余りにも急いだ性もあり、自然と粗漏な箇所も多かったと見え、翌年から約12年間、毎年の如く、
堤防決壊があり
開墾も停滞し、百章も離散するなどの困難が続いた様子である。

1644年には、唐井出その他、大小の用水路の新設・修築を開始している。
「三豊郡史」によると
『各地より開田希望の者、雲の如くに集まり、殊に伊予方面より多く入り来れり。
現今大野原村に存する、福田・石川・尾藤・細川・守谷・野村・合田・等の諸氏は
皆この前後に移住せしものなり』とある。

1673年には姫浜(現・豊浜町)と大野原との間に水争いが起きたとも記されている。
この頃には井関池の余水を溜めて置く小池を次々と増築し水不足を補うようにしている。
西宇手目掛り
猫塚池 万冶元年 八反五畝 .
磐 池 寛文7年 二町一反四畝 .
千年池 延宝3年 延宝三年 常磐池と一所に成
枝 池 延宝4年 四反五畝 二葉池と一所に成
梢 池 延宝4年 七畝二十歩 .
段之上池 延宝6年 二反九畝 .
袂 池(たもといけ) 貞享元年 四町余 .
萩原村青葉池 . . 元・大野原池
和田浜長谷池 貞享頃 . .

井関池樋の水掛り
阿弥陀池 正保二年 一町五反
豆塚池 寛文十年 一反六畝
段之池 延宝3年 一町三反
清水池 延宝2年 八反五畝
清水下池 正徳2年 五反後畝

その他の池(井関池樋の水掛り)
姫 浜 高丸池
姫 浜 今田池
柞 田 土井ノ池
油 井 広生池
油 井 龍田池

源泉[泉(出水)]
柳泉 同上泉 宮下泉 道上泉 柿砂泉 流田泉 野上沢泉 与左衛門泉 吉左衛門泉
新兵衛泉 亀井泉 片岡泉 石砂子泉
これらの泉は揚水不測を補うために掘られたものと思う
その他40有余の出水が掘られ井関池と共に大野原新田開発に寄与したとも書かれていた。




「三豊郡史」による1676年(延宝4年)頃の人口は
表百姓 133軒
小百姓 96:軒
験 者 3
山 伏 4
法華寺 1
人口   1424人
男子 747人
女子 679人
内僧侶 1人

と記されている。
人数が合わないが??



1699年(元禄十年)頃は


戸数・・488戸・ 人口も恐らく2千数百人を越えるに至っていたた゜ろうと記されている。
二十数年で約2倍強に増加しているということは、急激な発展を伺うことが出来る。


享保の大飢饉


享保10年〜享保19年の約10年間は世に有名な享保の大飢饉に見舞われたときであるが、
九州・中国・四国を中心とした大飢饉で享保17年、18,年が最も甚(はなはだ)しかったらしい。

三豊郡史によれば、餓死者17万人余、大風・洪水・大雹(ひょう)、稲無視の大被害が毎年の如く襲った上、
大疫病が流行し、人畜を死なせたそうである。

中姫の住民は食料に困り果て松皮餅や藁餅(わらもち)を食べて生命をつないだともある。
現在の我々は出来ないことであろうし、想像もしないだろう!!



1749,年(寛延2年) 井関池の大決壊


1748年(寛延元年)6月に大風雨があって以降7月下旬まで一滴の降雨もなく、農作物は目も当てられない程に
枯死した。
ところが7月21日〜22日の僅かな大雨で池・川が大洪水となり、家・田・畑を流失したものも多く
難民が続出したそうだ。

そして9月2日〜16日には又も大雨・洪水で農作物は収穫皆無・・・・翌年寛延2年4月には大地震・
6月には暴風雨・洪水、7月2日〜3日には再度大洪水があり、井関池が決壊、
前代未曾有の大被害を受けたとある。




明和 〜 安永 〜  天明 の頃


明和3年〜明和9年は享保に継ぐ惨事で 正月大雪、一寸五尺・・3月下旬まで雨降り続き、5月〜8月まで早魃、
12月暴風・こんな感じが毎年の如く続き、全く目も当てられない困窮に曝(さら)されたそうである。

明和7年五郷村の資料では
人口790人中、406人、即ち半数以上の人々が夫喰願いを出したと云われている。
中姫の村人が五郷の山中に入り、葛(くず)や蕨(わらび)を取ってきて唯一の食料にして生命をつないだと
伝えられてもいる。




1857年(安政4年) 井関池新樋大破損

安政4年4月25日午後から26、27日の朝にかけ大雨が降りしきり、特に26日の夜半になってからの豪雨は
すさまじいもので有ったと記している。
村中大恐慌(きょうこう)<・・・・・27日の朝・井関池の新樋(とい)は大は損し又々修築の大土木工事となった。

昭和27・28・29,年に大修築堤工事を行った時、当時の苦心と汗で築いた土層が明らかになったそうで、
工事関係者も当時の苦労の跡に涙したと記されていた。


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